仙巌園(島津家別邸)
2010年4月11日(日)
東横イン鹿児島中央駅西口周辺の散策を終え、宿に戻ってマイカーで出発9:36(0km)
仙巌園(島津家別邸)別名磯庭園着10:25(10.5km)
仙巌園(せんがんえん)は鹿児島県鹿児島市吉野町字磯にある薩摩藩主島津氏の別邸跡とその庭園。別名磯庭園である。
「桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた雄大な借景庭園
仙巌園(せんがんえん)は、江戸時代初期に島津光久(19代当主)によって築庭され、中国龍虎山の仙巌にちなんで「仙巌園」と名付けられました。四季折々の美しさに加え、桜島(築山/遠景)と錦江湾(池/中景)を借景に取り入れた雄大な風景が楽しめる大名庭園として、県民や国内・海外からの観光客に親しまれています。」と仙巌園のホームページに書かれている言葉その通りのすてきな庭園だった。
写真はすべて、くりっくすると拡大します。
写真1.仙巌園入り口 写真2.島津家の大砲 写真3.篤姫(あつひめ)のポスター
写真1.仙巌園の入り口で篤姫の人形と撮影。
写真2.緑の木々の中に、旧島津家の大砲が溶け込んでいた。
写真3.昨年(2009年)のNHK大河ドラマの篤姫のロケ地になったことから、圧姫のポスターが貼られていた。今年の大河ドラマは「龍馬伝」、でつながっていることに気付いた。
写真4.曲水の庭 写真5.築山に見立てた桜島 写真6.旧島津家の帆船
写真4.細長いきれいな川がゆっくり流れていて、ここで曲水の宴が行われたとのこと。風流なもよおしですね。
曲水の宴(きょくすい<ごくすい>のうたげ<えん>)は、水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、流れてくる杯が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、出来なければ罰として盃の酒を飲むという行事であるとウィキペディアに書かれてあったが、長家が飲めない人は大変だったでしょうね。
写真5.桜島と海が見える仙巌園は本当に贅沢な庭園ですね。前回は夏で、今回は春、次回は秋に来たいものです。
写真6.旧島津家の帆船もりっぱで美しいものです。お金持ちだったのでしょう。
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西郷隆盛の墓地
2010年4月11日(日)
東横イン鹿児島中央駅西口でサービスの朝食をいただき、外へ出た。
近くに西郷隆盛の墓地(南州墓地)があるからだ。
写真はすべてクリックすると拡大します。

写真1・南州墓地の看板 写真2・墓石 写真3・神社
写真1・南州墓地の看板には「命もいらず、名もいらず」という西郷隆盛の言葉がかいてあります。命も名もいらぬ人はどうしていいかわかりませんね。こんなに強い人はいないでしょう。
写真2・の真ん中の墓石には西郷隆盛の字が立派に刻まれています。
写真3・墓地が西郷隆盛神社になっています。

写真4・西郷南州顕彰館前 写真5・鶴丸城跡 写真6・鶴丸城跡の石垣
写真4・顕彰館というのを時々見かけるので、顕彰とはなにかを調べたら、
「顕彰の概念は個人の功績や善行を讃えるという点において多くを表彰と類似しており、一般的には同様の意味として用いられることも多い。」とのこと。
この建物は西郷隆盛の功績を讃えている建物なのだと理解した。中には入らなかったが、桜がきれいだったのを覚えている。
写真5・鶴丸城は鹿児島藩島津氏の居城だったところ。
写真6・鶴丸城の石垣とお堀。ふるさとの弘前城を思い出したが、鶴丸城には天守閣がないのはさびしい。
写真7・西郷隆盛洞窟看板 写真8・洞窟入り口 写真9・西郷隆盛像
写真7.8.9は西郷隆盛終焉の直前を過ごした洞窟(鹿児島市城山町)
~西南戦争最後の司令部~
現地にあった説明文によると「1877年(明治10)9月24日、午前4時政府軍城山総攻撃が始まりました。城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余。これを囲む政府軍は何重もの柵をめぐらし、その数4万。死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間過ごしたこの洞窟を出ました。桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎といった私学校の幹部たちも一緒です。この日の西郷の出立ちは妻のイトが縫ったしまの単衣に白い兵児帯。ゆっくりと岩崎谷を下ります。その時流れ弾が西郷の腰に命中。別府の介錯をあおいで49歳の生涯を閉じたのです」とのこと。
もう少し歴史を勉強してまた来ようと思ったしだい。
2010年4月11日(日)
東横イン鹿児島中央駅西口でサービスの朝食をいただき、外へ出た。
近くに西郷隆盛の墓地(南州墓地)があるからだ。
写真はすべてクリックすると拡大します。
写真1・南州墓地の看板 写真2・墓石 写真3・神社
写真1・南州墓地の看板には「命もいらず、名もいらず」という西郷隆盛の言葉がかいてあります。命も名もいらぬ人はどうしていいかわかりませんね。こんなに強い人はいないでしょう。
写真2・の真ん中の墓石には西郷隆盛の字が立派に刻まれています。
写真3・墓地が西郷隆盛神社になっています。
写真4・西郷南州顕彰館前 写真5・鶴丸城跡 写真6・鶴丸城跡の石垣
写真4・顕彰館というのを時々見かけるので、顕彰とはなにかを調べたら、
「顕彰の概念は個人の功績や善行を讃えるという点において多くを表彰と類似しており、一般的には同様の意味として用いられることも多い。」とのこと。
この建物は西郷隆盛の功績を讃えている建物なのだと理解した。中には入らなかったが、桜がきれいだったのを覚えている。
写真5・鶴丸城は鹿児島藩島津氏の居城だったところ。
写真6・鶴丸城の石垣とお堀。ふるさとの弘前城を思い出したが、鶴丸城には天守閣がないのはさびしい。
写真7・西郷隆盛洞窟看板 写真8・洞窟入り口 写真9・西郷隆盛像
写真7.8.9は西郷隆盛終焉の直前を過ごした洞窟(鹿児島市城山町)
~西南戦争最後の司令部~
現地にあった説明文によると「1877年(明治10)9月24日、午前4時政府軍城山総攻撃が始まりました。城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余。これを囲む政府軍は何重もの柵をめぐらし、その数4万。死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間過ごしたこの洞窟を出ました。桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎といった私学校の幹部たちも一緒です。この日の西郷の出立ちは妻のイトが縫ったしまの単衣に白い兵児帯。ゆっくりと岩崎谷を下ります。その時流れ弾が西郷の腰に命中。別府の介錯をあおいで49歳の生涯を閉じたのです」とのこと。
もう少し歴史を勉強してまた来ようと思ったしだい。
高千穂牧場
2010年4月10日(土)
高千穂河原出発13:09 写真はすべてクリックすると拡大します。
高千穂牧場着13:24(57.7km)

高千穂牧場は、広々と広がり、実に景色のよい牧場で、土曜日のせいもあり、多くの家族でにぎわっていました。
高千穂牧場出発14:41
夢見ケ丘着14:44(58.5km)

高千穂牧場のすぐ近くにある、遊び場で、大きなレストランと売店がありました。芝桜がきれいでした。
夢見ケ丘出発14:58
霧島神話の里公園着15:07(64.3km) 桜島山とつつじ

霧島神話の里公園出発15:37
丸尾の滝着15:46(70.1km)

まほろばの里に行く途中道端にあった滝。
丸尾の滝出発16:07
まほろばの里着16:17(75.6km)
まほろばの里出発16:45
東横イン鹿児島中央駅西口着18:26(本日走行距離129.8km)
今回の旅行、本日までの走行距離1858.2km
この記事は2010年8月14日に書いています。忙しさにかまけてすっかり遅くなってしまい、記憶も薄れてきてしまったので、はしょって簡単な記録だけにしようと思います。
2010年4月10日(土)
高千穂河原出発13:09 写真はすべてクリックすると拡大します。
高千穂牧場着13:24(57.7km)
高千穂牧場は、広々と広がり、実に景色のよい牧場で、土曜日のせいもあり、多くの家族でにぎわっていました。
高千穂牧場出発14:41
夢見ケ丘着14:44(58.5km)
高千穂牧場のすぐ近くにある、遊び場で、大きなレストランと売店がありました。芝桜がきれいでした。
夢見ケ丘出発14:58
霧島神話の里公園着15:07(64.3km) 桜島山とつつじ
霧島神話の里公園出発15:37
丸尾の滝着15:46(70.1km)
まほろばの里に行く途中道端にあった滝。
丸尾の滝出発16:07
まほろばの里着16:17(75.6km)
まほろばの里出発16:45
東横イン鹿児島中央駅西口着18:26(本日走行距離129.8km)
今回の旅行、本日までの走行距離1858.2km
この記事は2010年8月14日に書いています。忙しさにかまけてすっかり遅くなってしまい、記憶も薄れてきてしまったので、はしょって簡単な記録だけにしようと思います。