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[ 2024/04/28 12:39 | ]
西郷隆盛の墓地
2010年4月11日(日)
東横イン鹿児島中央駅西口でサービスの朝食をいただき、外へ出た。
近くに西郷隆盛の墓地(南州墓地)があるからだ。
写真はすべてクリックすると拡大します。
写真1・南州墓地の看板 写真2・墓石 写真3・神社
写真1・南州墓地の看板には「命もいらず、名もいらず」という西郷隆盛の言葉がかいてあります。命も名もいらぬ人はどうしていいかわかりませんね。こんなに強い人はいないでしょう。
写真2・の真ん中の墓石には西郷隆盛の字が立派に刻まれています。
写真3・墓地が西郷隆盛神社になっています。
写真4・西郷南州顕彰館前 写真5・鶴丸城跡 写真6・鶴丸城跡の石垣
写真4・顕彰館というのを時々見かけるので、顕彰とはなにかを調べたら、
「顕彰の概念は個人の功績や善行を讃えるという点において多くを表彰と類似しており、一般的には同様の意味として用いられることも多い。」とのこと。
この建物は西郷隆盛の功績を讃えている建物なのだと理解した。中には入らなかったが、桜がきれいだったのを覚えている。
写真5・鶴丸城は鹿児島藩島津氏の居城だったところ。
写真6・鶴丸城の石垣とお堀。ふるさとの弘前城を思い出したが、鶴丸城には天守閣がないのはさびしい。
写真7・西郷隆盛洞窟看板 写真8・洞窟入り口 写真9・西郷隆盛像
写真7.8.9は西郷隆盛終焉の直前を過ごした洞窟(鹿児島市城山町)
~西南戦争最後の司令部~
現地にあった説明文によると「1877年(明治10)9月24日、午前4時政府軍城山総攻撃が始まりました。城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余。これを囲む政府軍は何重もの柵をめぐらし、その数4万。死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間過ごしたこの洞窟を出ました。桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎といった私学校の幹部たちも一緒です。この日の西郷の出立ちは妻のイトが縫ったしまの単衣に白い兵児帯。ゆっくりと岩崎谷を下ります。その時流れ弾が西郷の腰に命中。別府の介錯をあおいで49歳の生涯を閉じたのです」とのこと。
もう少し歴史を勉強してまた来ようと思ったしだい。
2010年4月11日(日)
東横イン鹿児島中央駅西口でサービスの朝食をいただき、外へ出た。
近くに西郷隆盛の墓地(南州墓地)があるからだ。
写真はすべてクリックすると拡大します。
写真1・南州墓地の看板 写真2・墓石 写真3・神社
写真1・南州墓地の看板には「命もいらず、名もいらず」という西郷隆盛の言葉がかいてあります。命も名もいらぬ人はどうしていいかわかりませんね。こんなに強い人はいないでしょう。
写真2・の真ん中の墓石には西郷隆盛の字が立派に刻まれています。
写真3・墓地が西郷隆盛神社になっています。
写真4・西郷南州顕彰館前 写真5・鶴丸城跡 写真6・鶴丸城跡の石垣
写真4・顕彰館というのを時々見かけるので、顕彰とはなにかを調べたら、
「顕彰の概念は個人の功績や善行を讃えるという点において多くを表彰と類似しており、一般的には同様の意味として用いられることも多い。」とのこと。
この建物は西郷隆盛の功績を讃えている建物なのだと理解した。中には入らなかったが、桜がきれいだったのを覚えている。
写真5・鶴丸城は鹿児島藩島津氏の居城だったところ。
写真6・鶴丸城の石垣とお堀。ふるさとの弘前城を思い出したが、鶴丸城には天守閣がないのはさびしい。
写真7・西郷隆盛洞窟看板 写真8・洞窟入り口 写真9・西郷隆盛像
写真7.8.9は西郷隆盛終焉の直前を過ごした洞窟(鹿児島市城山町)
~西南戦争最後の司令部~
現地にあった説明文によると「1877年(明治10)9月24日、午前4時政府軍城山総攻撃が始まりました。城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余。これを囲む政府軍は何重もの柵をめぐらし、その数4万。死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間過ごしたこの洞窟を出ました。桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎といった私学校の幹部たちも一緒です。この日の西郷の出立ちは妻のイトが縫ったしまの単衣に白い兵児帯。ゆっくりと岩崎谷を下ります。その時流れ弾が西郷の腰に命中。別府の介錯をあおいで49歳の生涯を閉じたのです」とのこと。
もう少し歴史を勉強してまた来ようと思ったしだい。
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