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[ 2025/05/12 20:35 | ]
知覧特攻平和会館
知覧特攻平和会館

2010年4月12日(月)
維新ふるさと館出発12:26(2.7km)

寿司まどか着12:59(13.0km)昼食
寿司まどか出発13:25

知覧特攻平和会館(ちらんとっこうへいわかいかん)着14:05(38.0km)

知覧特攻平和会館(ちらんとっこうへいわかいかん)は鹿児島県南九 州市知覧町にある、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に編成された大日 本帝国陸軍の特別攻撃隊に関する資料を展示する施設
(ウィキペディアより)。


写真はすべてクリックすると拡大します。

写真1.知覧特攻平和会館入り口  写真2.知覧特攻平和会館全景  写真3.平和の鐘
     

写真1.写真2.知覧特攻平和会館
知覧は、太平洋戦争末期、陸軍の特攻基地が置かれた町だという
ことを、この知覧特攻平和会館を訪れるまで知らなかった。

特攻隊というのは、私が生まれたころ、爆装した飛行機もろとも
肉弾となり敵艦に体当たりした陸軍特別攻撃隊員のことだという
ことはある程度知っていたが。

今の若い人達は皆特攻隊のことを知っているだろうか。

それにしても、なんでそんなに恐ろしいことができたのか。またさせる
ことができたのか。教育のせい、洗脳のせいだろう。恐ろしいことだ。

写真3.平和の鐘
この知覧特攻平和会館を訪れる人は、南洋の空に散った特効隊員の
冥福と恒久平和を願って鳴らすにちがいありません。
私も叩いてみたが、特別な音ではなかった。覚えていないのだから。


写真はすべてクリックすると拡大します。

写真4.慟哭、誓いの碑     写真5.特攻隊「とこしえに」の碑  写真6.戦闘機 隼
     

写真4.慟哭、誓いの碑
慟哭、誓いの碑に彫られてている文(慟哭とは、泣き叫ぶこと)

この鎮魂慰霊、慟哭の中に、われら国を超え、
民族を超え、世界人類永遠の平和をここに誓う

LAMENTATION, MONUMENT OF PLEDGE
NO MORE TRAGEDY. WE HEREBY VOW ETERNAL PEACE
FOR ALL MANKIND THROUGHOUT TEH WORD,
IRRESPECTIVE OF NATIONS AND RACES

写真5.特攻隊「とこしえに」の碑
開聞の南に消えた勇士の御霊が「とこしえに」やすらかならんことを 祈りつつ、りりしい姿を永久に伝えたいために、心をこめて作られた 像とのこと。

写真6.戦闘機 隼(復元された一式戦闘機)
展示してある機体は平成19年5月に公開された映画『俺は,君のために こそ死にに行く』の撮影のために実寸大に精巧に製作されたものである。 

陸軍特別攻撃隊員の遺影、遺品、記録等貴重な資料の展示を見て、胸に迫る ものがあり、小泉前首相が涙を流したとニュースで見たのを思い出した。 確かに、感動したけれど、南九州市のホームページに書いてある以下の文 を読んで

私たちは,特攻隊員たちの崇高な犠牲によって生かされ国は繁栄の道を進み,今日の平和日本があることに感謝し,特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら,再び日本に特攻隊をつくってはならないという情念で,貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と,関係者の方々のご尽力によって展示しています。

「私たちは,特攻隊員たちの崇高な犠牲によって生かされ国は繁栄の道を進み,今日の平和日本がある」というくだりが理解できないのである。
この文によると、私達は特攻隊員たちの犠牲によって生かされていて、国の繁栄も 今日の日本の平和も特攻隊員たちの犠牲によるという意味にとれてしまう。
頭が悪い私には、よく分からないのだが、単純に考えると、特攻隊員たちには 申し訳ないが、彼らの犠牲によって、私達が生かされ、国が繁栄したとは考えにくい のである。だからこそ、本当に心からかわいそうに思えるのだ。だからこそ 再び日本に特攻隊をつくってはならないと私は思うのである。
知覧特攻平和会館出発15:14     ↓ 道の駅指宿(いぶすき)着15:48(62.8km) 道の駅指宿出発16:00     ↓ 指宿(いぶすき)温泉 ご来賓心の宿、吟松(ぎんしょう)着16:26) 本日走行距離(77.6km)、この旅行全走行距離(1961.0km) 薩摩の良さがみえてくる
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[ 2010/08/26 21:26 | Comments(0) | TrackBack() | 旅日記 ]
西郷隆盛誕生地
西郷隆盛誕生地

2010年4月12日(月)
東横イン鹿児島天文館Ⅰ出発9:15(0km)

写真はすべてクリックすると拡大します。

写真1.西郷誕生地の碑       写真2.西郷邸庭園跡庭石  写真3.西郷・大久保らの学び屋
        

写真1.西郷隆盛誕生地の碑
    (鹿児島市加治屋町 )
    加治屋町は西郷隆盛、従道、大山巌、東郷平八郎、山本権兵
    衛なども排出した町とのこと。

写真2.西郷邸庭園跡庭石
    こんなに大きな庭石があったのだから、かなりりっぱな邸宅だっ
    たのでしょうね。

写真3.西郷・大久保らが巣立った学び屋
    薩摩藩では郷中教育(ごちゅうきょういく)という独特の青少年
    教育システムがあり、それは教師無き教育というのだそうだ。
    つまり、先輩が後輩を指導するシステムなのだ。同輩は助け合
    いながら教えつつ学び、学びながら教える。すばらしい教育法
    だと思う。
    教えると本当に良く理解できまた覚えることができるのだから、
    薩摩が優秀だったこともうなづけるというものだ。
    この方法、現代でも応用できると思うのだが、実施している
    ところはないのだろうか。


写真はすべてクリックすると拡大します。

写真4.維新ふるさと館       写真5.篤姫(あつひめ)居室再現   写真6.西郷隆盛と犬

            

写真4.維新ふるさと館
    西郷誕生地のすぐ隣にあって、幕末の薩摩の資料などが
    展示されていた。 維新の映画もあったようだが覚えていない。

写真5.篤姫(あつひめ)居室再現
    2009年のNHK大河ドラマ「篤姫(あつひめ)」と西郷を
    思い出した。

写真6.西郷隆盛と犬
    出口にあったが、見慣れた西郷さんの顔とはだいぶ違って
    いた。
    今回、改めて、西郷さんはなぜ犬を連れているのだろうと
    思い、ヤフーの知恵袋を見ると

愛犬「つん」を従えて、ウサギ狩りに行く姿を銅像の題材にしたためです。
※本当の「つん」は薩摩犬のメスですが、銅像を作る時には既にいないため、海軍中将(?)の雄の飼い犬をモデルにしています。


とのことです。ウサギ狩りに浴衣姿で行くものなんでしょうかねえ。
   ちょっと不思議です。それが西郷さんなのでしょうか。
   ちょくちょくウサギ狩りをしていたのでしょうか。疑問?

[ 2010/08/26 16:00 | Comments(1) | TrackBack() | 旅日記 ]
ザビエルと我は海の子
ザビエルと我は海の子

2010年4月11日(日)
仙巌園(島津家別邸)別名磯庭園出発14:05
祇園之州(ザビエル上陸地)着14:17(12.4km)

写真はすべて、クリックすると拡大します。
        
写真1.ザビエル上陸地      写真2.ザビエル上陸記念碑   写真3.我は海の子の碑

写真1.日本にキリスト教を最初に伝えた聖フランシスコ・ザビエルは有名ですが、最初鹿児島市に上陸したことは知りませんでした。

写真2.ザビエル上陸記念碑(鹿児島市)は ザビエル一行が薩摩国祇園之洲あたりに上陸したことを記念して、鹿児島市祇園之洲公園に1978年に設置。かつてこの公園(新祇園之洲)は浅瀬の干潟で1970年代の埋め立てによって作られた土地。実際の上陸地は旧祇園之洲 だったとのこと。

写真3.我は海の子の歌詞は作詞者宮原晃一郎が幼少期をこの地で過ごしたことを思い出して作ったとのこと。原作とは多少変化していて、色々な逸話があるようだ。
歌碑には3番までしか歌詞がないが、実際には7番まであるのだそうだ。知らなかったなあ。

昭和17年(1942年)12月(初等科音楽四)では
われは海の子(宮原晃一郎作詞、作曲者不詳)

1.われは海の子、白浪の、さわぐいそべの松原に、
煙たなびくとまやこそ、わがなつかしき住かなれ。

2.生まれて潮にゆあみして、浪を子守の歌と聞き、
千里寄せくる海の気を、吸いて童となりにけり。

3.高く鼻つくいその香に、不断の花のかをりあり。
なぎさの松に吹く風を、いみじき楽とわれは聞く。

4.丈餘のろかいあやつりて、 ゆくて定めぬ浪まくら、
ももひろちひろ海の底、遊びなれたる庭廣し。

5.いくとせここにきたへたる、鐵より堅きかひなあり。
吹く潮風に黒みたる、はだは赤銅さながらに。

6.波にただよふ氷山も、来たらば来たれ恐れんや。
海巻きあぐる龍巻も、起らば起れおどろかじ。


7.いで大船を乗り出して、われは拾はん海の富。
いで、軍艦に乗組みて、われは護らん海のふ國。

(社)西部海難防止協会 鹿児島支部のページより引用


祇園之州公園出発14:28
多賀山公園着14:32(13.2km)

        
写真4.多賀山公園案内図    写真5.東郷平八郎墓地      写真6.東郷元帥像

東郷平八郎とは
(1847-1934) 海軍軍人。大将・元帥。薩摩の人。日露戦争の際、連合艦隊司令長官として日本海海戦を指揮、バルチック艦隊を破った。ロンドン軍縮条約では締結に強硬に反対。  三省堂提供「大辞林 第二版」より


多賀山公園出発15:17
再び朝散策した南州公園着15:34(18.9km)

もう一度城山展望台や西郷隆盛の顕彰館あたりをうろつき、鹿児島市の総氏神さま である島津齊彬公を祀っている照国神社におまいりした。↓



照国神社出発18:10
東横イン鹿児島天文館Ⅰ着18:19(本日走行距離25.0km)
この旅行の全走行距離1883.3km)
鹿児島市内をぐるぐる回った一日だった。

[ 2010/08/16 00:32 | Comments(1) | TrackBack() | 旅日記 ]



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